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リレーコラム

no.15 「人生は諸法無我5〜人生を変えた大ケガ」 鳳鳴40期 1988年卒 三澤威さん

8/27/2025

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「人生は諸法無我5〜人生を変えた大ケガ」
鳳鳴40期 1988年卒 三澤威

「人生は諸法無我(1)〜同級生からの手紙」2024.12掲載
「人生は諸法無我2〜初任給の思い出」2025.3掲載
「人生は諸法無我3〜あの頃の貴重な日々」2025.6掲載
「人生は諸法無我4〜全てが未熟だった」2025.8.5掲載

リング上で仰向けで倒れている自分。手足がピクリとも動かない。体がどうなっているのか、何が起きているのか、全くわからなかった。
試合はストップし、救急車で病院に運ばれた。
僕自身は、ただ痛かった。手がビリビリと痺れた。少しの振動で強烈な痛みが走った。風が当たるだけで痛かった。シーツが触れるだけで激痛だった。
痛みに支配されていたので、記憶はかなり欠如している。うっすらとドクターに、体に感覚があるか、動くかなどを、触診されていたのを覚えている。
ドクターが誰かに説明していたのであろう。
「もしかしたら車椅子かもしれない。」
「初期社会復帰できればいいかも。」
その言葉だけが僕に届いた。

幸いにも、麻痺した体は少しづつ動くようになってきた。日に日に、手の使える動きが増えた。スプーンを持って、自分で食事が食べられるようになった。箸を持って食べられるようになった。雑誌が持てるようになった。特殊な寝たままのメガネで、テレビや雑誌が見れるようになった。手伝ってもらいながら、寝返りがうてるようになった。車イスに乗れるようになった。自分の手で車イスを動かせるようになった。歩行訓練を始められた。リハビリでできることが多くなった。少しずつ、少しずつ、できる動きが増えていた。
今まで普通に出来ていた動きが、こんなにもありがたい動きだったとは。失ってはじめて分かる当たり前のありがたさ。有難いは、有るのが難しい。本当は、あたり前はあたり前ではなかった。
かゆいところを自分で掻く。取りたい物を自分で取る。食べたい時に自分で食べる。
自分で、自分で…なんと自由なことか!
人は、生まれ、動きを増やし、出来ることを増やし、自由を手に入れていく。動きを増やす、動きやすい体を手に入れるとは、自由を増やすこと。
人は言う。自由になりたいと。束縛されたくないと。でも、体のメンテナンスを疎かにして、体の動きを減らしていないだろうか。体の動きを減らすとは、自由を減らすこと。体をメンテナンスしないと言うことは、自由を得たいと願いながら、自由を得る機会を逃していることではないだろうか。
リハビリ室には、他にも脊髄損傷で四肢麻痺となり、リハビリされている患者さんがいた。人によって、回復具合やリハビリの成果はまるで違う。僕は、かなり順調に動けるようになっていった。でも、動きが見られない方もいた。
動けることのありがたさ。当たり前のありがたさ。自由のありがたさ。動けるようになったものとそうでないものの違い。同じ努力でも違う結果の出ること。何が違いをつくるのか。

二十歳の僕は、病室のベッドで、リハビリ室で、いろんな思考をインプットされていた。
その思考が、今の僕を今の僕たらしめている。
このケガが僕の人生を大きく変えた。
夢に向かってがむしゃらに進む生き方ではなく、起きたことを受け入れて、今を一生懸命に生きる。諸行無常、諸法無我の人生が動き出した瞬間でもある。
諸法無我の人生、続きは9月27日の東京鳳鳴会前の鳳鳴塾にて!

​2025.8.27掲載
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no.14 「人生は諸法無我4〜全てが未熟だった」 鳳鳴40期 1988年卒 三澤威さん

8/5/2025

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「人生は諸法無我4〜全てが未熟だった」
鳳鳴40期 1988年卒 三澤威

「人生は諸法無我(1)〜同級生からの手紙」2024.12掲載
「人生は諸法無我2〜初任給の思い出」2025.3掲載
「人生は諸法無我3〜あの頃の貴重な日々」2025.6掲載

1989年12月19日、後楽園ホールでの新日本プロレス「夢︎☆勝ちます」。デビューして2ヶ月の僕はセミファイナルに出場した。

「夢︎☆勝ちます」に強烈なインパクトをを持たせたのは、獣神ライガーVS三澤威であると、かつて週刊プロレス名物編集長ターザン山本が書いていた。
当時の若手社員達が企画した「夢︎☆勝ちます」。
本来は、若い世代にスポットを浴びせる明るい企画である。その陽である「夢☆勝ちます」に、影である陰を持たせたのは、やはりライガーvs三澤威なのだと思う。
この世界にあるものは相反する陰と陽が揃うことによって成立する。「夢︎☆勝ちます」は、ライガーVS三澤 威によって、強烈な陰を持ち、その後に続くブランドとなった。

僕の相手がライガーさんに決まった時、正直嬉しかった。普通では、デビューしたての若手には組まれないカード。それが組まれたのだ。若手だけの試合と言う特殊な企画とは言え、後楽園ホール大会のセミファイナル。それが現実となるのだ。間違いなく、その日の注目カードであった。
僕は、それをチャンスと捉えていた。そして試合に対する自信もあった。20歳になったばかりの当時の僕は、前だけを見ていた。

選手の入場前に、音声録音された選手の試合に対する意気込みが流された。これは当時としては初の試みだった。僕のコメントは、「簡単に負けません。」当日のパンフレットにも、僕は同じことを書いていた。
結果的に僕は、1分32秒という短時間で簡単に負けている。
当時の週間プロレスにはこう書かれている。
「1分32秒、ライガー、レフリーストップ勝ち。ここに至るまでの試合展開は無きに等しい。試合開始直後、三沢がロープ際で張り手を見舞うと、逆にライガーが張り手の返礼。続いて手探りの状態で両者が相対したとき、無防備のまま前傾姿勢をとる三沢の左顔面めがけてライガーの浴びせ蹴りが飛んできた。バコ!
鋭い音が館内に響いた瞬間、三沢すでにダウンしていた。起き上がる気配を全く見せないばかりか、ロープ際で仰向けになった三沢はピクリとも動かない。それを見たレフリーは即座に試合終了のゴングを要請した。」
ライガーさんはこうコメントしている。「彼の受け身の未熟さと精神力の未熟さが全てだ。」

意識はあった。しかし起きようとしても、体が全く反応しなかった。レフリーに、できるかどうか聞かれて、「動かない。」とだけ答えた。当時の僕には、何が起きたのか、どういう状況なのか、全くわからなかった。

「簡単には負けない。」僕が望んでいたのは、長く戦う事だった。ガッと思いっきり行って戦う短期決戦ではなく。だから、張り手をされても、思い切りは反撃しなかった。ライガー戦と言う時間を、少しでも長く味わいたかった。
脳科学、心理学を勉強した今だったらわかる。
「負けない。」は負けることを前提としているコメントだった。脳は”ない”を認識できないのだから、負ける現実が実現する。
「簡単には負けない。」
簡単に負ける現実を引き寄せた。当時の僕は、受け身も、精神力も、思考も、全てにおいて未熟だった。

「人生は諸法無我5〜人生を変えた大ケガ」へ続く

三澤威さんプロフィール

2025.8.5掲載
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NO.13 「人生は諸法無我3〜あの頃の貴重な日々」 鳳鳴40期 1988年卒 三澤威さん

6/29/2025

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「人生は諸法無我3〜あの頃の貴重な日々」
鳳鳴40期 1988年卒 三澤威

「人生は諸法無我〜同級生からの手紙」2024.12掲載
「人生は諸法無我2〜初任給の思い出」2025.3掲載


プロレスの巡業で日本各地、たまには海外を含め多くの土地を訪れる。行ったことのない都道府県は無い。あの土地に行ったらあれを食べよう。あの名所を訪れよう。あの観光地は近いかな。などなど、今でこそ、その土地土地を楽しんでいるが、昔はそうではなかった。
新日本プロレスに入門して、すぐに地方巡業に同行した。どの土地を訪れたのか、何を食べていたのか、何をしていたか、ほぼ記憶は無い。
地方へは距離によって、会社の専用バス、新幹線、飛行機で出発。地方巡業先では、朝バスに乗り宿を出発。宿へ着き、会場へ向かい、試合をし、雑用をし、宿へ帰る。コインランドリーを探し洗濯をする。近くで晩飯をとる。宿へ帰り、洗濯物を仕分けして届け、荷物整理をして寝る。毎日がこの繰り返しであった。
どの土地へ行くんだとか、何を食べるとか、そういうことに対しての関心が全くなかったのだろう。その日一日を過ごすのに精一杯だった。

当時は、宿からの会場入りと試合後に会場から宿に戻る時はタクシーが主流だった。このタクシーの手配をするのが配車係なのだが、これがすこぶる大変だった。紙に選手の対戦カードをスタンプしてもらい、選手の人数確認。誰と誰を一緒に乗せるかを考えながら、タクシーの台数を手配する。しかし、目を離した隙に1人で乗って行く先輩もチラホラといて、足りなくなると、慌ててもう一台呼ばなければならなくなる。特に試合後は、試合の終わる時間を予想して手配するのだが、なかなか来なかったり。
特にのんびりした田舎だと、タクシーの運転手さんものんびり。こっちだけが焦る。当時は携帯電話などなかったから、そのたびに公衆電話まで走る。靴下に10円玉やテレホンカードを忍ばせてセコンドに付いていたものだ。
タクシーが来なくて、選手を持たせると怒られるのだが、怒られるのが嫌なので、自然とタクシーを早く呼ぶようになる。待たせている間にタクシーのメーター料金がどんどん上がって高くなることもしばしば。だが、怒られる方が嫌なので、料金が高くなる方を選んでしまう。
配車係をしていると、宿から会場に着くのが最後の選手と一緒に来ることになるので当然遅くなる。たまに練習が始まっていると、遅い!と怒られる。
若手時代、プロレス会場の仕事で何がつらかったか?と聞かれると、僕はいつも「配車」と答える。

今の時代は、町々にコインランドリーが結構あるが、当時の地方では、数少なかった。町に1つだけとか、小さいランドリーとかが多かった。先輩とバッティングすると、当然先輩に譲るので洗濯を始める時間も遅くなる。ガス乾燥機だと乾くのが早いが、電気乾燥機だとかなり時間がかかる。
洗濯は、多い時では8人分をやっていた。外国人選手からもたまに頼まれた。当時の大きなレスラー3人であるベイダー、ビガロ、コキーナ。たまにしか洗わないので、なかなか臭いが洗濯しきれなく、乾燥機を開けた瞬間のヤバさは凄かった。
そんなこんなで、コインランドリーで、夜明けを迎えることも度々あった。明るくなって来た空を見ながら、「今日も明るくなって来たなぁ。」と、同期の大利と、何度か会話したのを思い出す。

眠りにつき起きるとまた1日が始まる。1日を精一杯生きる。そして眠りにつき、翌朝起きて1日が始まる。
そのことを、当時の僕は、何も考えずに受け止めていたが、それがどんなに素晴らしいことかは、今になってわかる。

1日を精一杯生きれること。
眠りにつけると言う事。
翌朝を迎えられると言う事。

平凡に思えるこれらのことが、奇跡であり、ギフトである。あなたは、凄い貴重な日々を過ごしていたんだよ。当時の僕にそう教えてあげたい。

「人生は諸法無我4〜全てが未熟だった」へ続く

2025.6.29掲載
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NO.12 「人生は諸法無我2〜初任給の思い出」 鳳鳴40期 1988年卒  三澤威さん

3/31/2025

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「人生は諸法無我2〜初任給の思い出」
鳳鳴40期 1988年卒 三澤威

「人生は諸法無我(1)~同級生からの手紙」2024.12掲載
​

4月から新社会人となる者も多いであろう。鳳鳴高校を卒業して就職する者、大学生活を経て就職する者。どちらにせよ、働き始めて少ししたら、初任給をもらえるはずだ。
僕の初任給の思い出を書いてみたい。

大学を休学した僕は、新日本プロレスに入寮してすぐに、練習生としての契約書にサインをした。合宿所の応接間で、事務所の人から契約書を渡された。ちょうど応接間にいたライガーさんが、「お前らプロになるんだから、良く読んでサインしろよ。」と言われたのを覚えている。
契約書には、「たとえ命を失くすようなことが起きたとしても責任を追及しない」といったような旨のことが書かれていた。それを読んで僕は、今まで住んでいた世界とは違う世界へ来たんだなと、改めて実感した。

練習生にも給料は出る。入門1ヵ月後、同期で入ったうちの2人はすでに逃げ出していて、残った3人で六本木のテレビ朝日の中にあった新日本プロレス本社へ行き、初めての給料をもらった。手取りで45,000円。
初めての給料で僕が買ったのは、SONYのカセットウォークマンだった。僕と同期は、日本人選手バスの1番後ろ、リクライニングにならないシートに並んで座っていた。前の席に座る大先輩が、毎日にようにプロレス界のグチと夢がなくなるような話しをしていた。そんな話は聞きたくはなかった。自分の世界に浸れる移動中のお供が欲しかった。

プロレスラーを目指しながら過ごしていた大学1年生の時、よく聞いていたのが岡村孝子の「夢をあきらめないで」だった。大学生生活を楽しみながら、そこに埋もれていく気持ちを、この曲を聴くことによって奮い立たせていた。
新日本プロレスに入門してからも、何度も何度もこの曲を聴いた。僕はもう世間一般にある普通の生活ではなく、この特殊な世界で生きていくんだと、この曲を聴くことによって確認していたのだと思う。

「いつかは 皆 旅立つ
それぞれの道を歩いていく
あなたの夢を あきらめないで
熱く生きる瞳が好きだわ
負けないように 悔やまぬように
あなたらしく 輝いてね
苦しいことに つまずくときも
きっと 上手に 越えて行ける
心配なんて ずっと しないで
似てる誰かを愛せるから
切なく残る痛みは
繰り返すたびに 薄れていく
あなたの夢を あきらめないで
熱く生きる瞳が好きだわ
あなたが選ぶ全てのものを
遠くにいて信じている
あなたの夢を あきらめないで
遠くにいて信じている」

音楽だったり、本だったり、映画だったり、もっと違うものだったり、その時々でその人に必要なものがある。どんなにお金があっても、どんなに高価だとしても、その時の自分に必要でなければ、何の価値もない。一見すれば何の価値もないお金の使い方だとしても、その時のその人にとっては、とても大事な使い方だったりするかもしれない。
僕が、新日本プロレスで初めて手にしたお金で買ったウォークマン。そして、それで聞いた「夢をあきらめないで」。今ではガラクタにしか過ぎないウォークマン。あまり聴くことがなくなった岡村孝子。当時の僕にとっては、とてもとても価値のあったものだったんだなと、今あらためて思う。
みなさんにも、それぞれの人生に大切な初任給の思い出があることでしょう。そしてこれから初任給を迎える人たち。良き人生のエピソードとなることを願っています。

「人生は諸法無我3〜あの頃の貴重な日々」へ続く

三澤威オフィシャルショップ

2025.3.31掲載
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NO.11  「人生は諸法無我〜同級生からの手紙」  鳳鳴40期 1988年卒 三澤威さん

12/14/2024

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「人生は諸法無我~同級生からの手紙」
鳳鳴40期 1988年卒 三澤威

鳳鳴の高校生だった時の僕の夢はプロレスラーになることだった。幸いにも新日本プロレスへ入門しデビュー、憧れのプロレスラーになる夢を叶えることができた。
と、そこまでは夢に向かってまっしぐらの人生であったが、その舵を変えられたのが、デビューわずか二ヶ月後の試合であった。そこで頸椎損傷、四肢麻痺となる重傷を負った僕は、それまでとは違う人生の歩み方をするようになる。大いなる一つの夢を目指す生き方ではなく、ご縁に導かれて生きる諸法無我の人生である。

僕が初めて戸籍謄本を取りに行ったのは高校3年生の秋のことだった。両親との血縁関係を疑って…などと言う事はなく、新日本プロレスへ入門の願書を送るのに必要だったのだ。先生による大学へ受かるための進路指導が行われていた頃だ。進学希望コースにいた僕は、希望大学を記入する用紙にこう書いた。
「第一志望 新日本プロレス  第二志望 全日本プロレス」
それを渡した時の担任の先生の顔は無表情で本気にはされなかった。僕はというと、市役所へ戸籍謄本を取りに行った時の帰り道、自転車をこぎながらワクワクしていた。夢へ向かって進みだしたんだと言う高揚感があったのだと思う。高校から大学へと向かう道を外れて違う道へ行く。戸籍を取りに行くと言う些細な行為だけれど、それは夢の道への小さな一歩だった。
結局、僕は大学へ進学した。その一歩からもっと前へは進めなかった。あきらめたわけではなかった。僕は計画的に東京世田谷区にある大学を選んだ。新日本プロレス道場が世田谷区にあったからだ。新日本プロレスでは、新しくプロレス学校なるものが始まろうとしていた。そこに通うことを視野に入れて、僕は世田谷区にある日本大学文理学部教育学科に入学し、新日本プロレス道場の近くにアパートを構えた。その頃は鳳鳴から一緒に上京した同級生と夜な夜な集まる日々を送った。

その一年後、僕は友達の誰にも言わずに突然に姿を消した。大学を休学して新日本プロレスに入門したのだ。突然いなくなった僕を心配して、鳳鳴の同級生たちは使えなくなった電話に何度も電話したり、アパートを見に行ったりしたらしい。入門してしばらくした頃、鳳鳴で良くプロレスを語り合った同級生から、新日本プロレスの事務所に手紙が届いた。
『 おお。威、久しぶり。◯◯だ。元気でやってるか?おめ〜心配したぜ。威のところに何度電話しても、「この電話は使われておりません」て言われるし…』で始まった手紙には、ぎっしりといろいろなことが書かれていた。
『それにしてもびっくりしたよ。□□から電話が来て、「威がどこに行ったかわかったぞ。あれじゃ電話も通じねえ〜よ。週プロやゴングに、威が練習生の三沢って載ってるんだよ!!早く買ってこい。」びっくりしちまったぜ。新日本入るんだったら、俺や□□に一言ぐらい言ってほしかったよな。巡業とかも大変だろ。俺すんげー心配なんだよ。新日本だぜ。鬼の道場だろ。シゴキもあるだろ。新米だとイジメなんかもあるかもしんないしさ。今週も電話かかんねって知ってながら、もしかしたら俺が番号押し間違えてるんじゃねえかって、何回も電話してたんだぜ。俺たちはいくらでも応援するからな!!困ったことがあったら、いつでも電話してきてくれ!!金なかったらコレクトコールでもいい。今はきついだろうけどがんばってくれ。俺も今の状況きついし、もう辞めたいけど、威をみならってがんばるよ。』
手紙には、しつこいくらいに何度も自分の電話番号が書かれていて、テレホンカードも同封されていた。

今になって、若き青春の日々につるんだ同級生に支えらえた有難さが良く分かるようになった。だからだろう、最近はクラス会も幹事となり主催した。これからも鳳鳴から続いているご縁の人生を繋いで生きて行こうと思う。そんな諸法無我の人生についてはまたの機会に。

「人生は諸法無我2〜初任給の思い出」へ続く

三澤威オフィシャルショップ

2024.12.14掲載
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NO.10 「人生楽しんだもん勝ち〜ゴールデン街38年」    鳳鳴31期 1979年卒 伊藤由起子さん

8/16/2024

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「人生楽しんだもん勝ち〜ゴールデン街38年」
鳳鳴31期 1979年卒 伊藤由起子

鳳鳴を卒業して早46年!
私の人生はいつも新宿歌舞伎町のゴールデン街にありました。

大学に入ってからの私は、野外演劇、特にアンダーグラウンドの舞台に強い興味を持ち始めました。特に衝撃を受けたのが、状況劇場の「紅テント※」での公演でした。初めて観たときは、その圧倒的なエネルギーと独特な雰囲気に、言葉では表せないほどの興奮を覚えました。その余韻冷めやらぬまま、花園神社の裏階段からふらふらと立ち寄ったのがゴールデン街でした。

当時のゴールデン街は、ただの飲み屋街ではありませんでした。文化人や著名人、映画監督、マスコミ関係者、そして役者たちが夜な夜な議論を交わし、時には声を張り上げたり大立ち回りを繰り広げる、まさに芸術と文化のハブのような場所でした。ぼったくりもあり、一見さんお断りのなかなか敷居が高い街、その街の一員としては入れたときに、私は大きなステータスを感じたものでした。

ゴールデン街の住人として「10CC(テンシーシー)」というお店を持つことになり、早くも38年が経ちました。たった11席の小さなお店ですが、これら300店舗の集合体がこの街の魅力を引き立てています。お店を開くことは非常に勇気のいる決断でした。その決断を支えてくれたのは、地域の方々や常連のお客様、私を育ててくれる(逆に育てたり・・)多くの人たちでした。おかげで、今の私があります。

私が皆さんに伝えたいメッセージは、「やりたいことを始めるのは、やりたいと思った時だよ!」ということです。お店は無謀にも26歳で始めました。自分のやりたいことをやり続けてきました。40歳から趣味で始めたゴシックメタルバンドも、今では24年が経ちました。若い方は特に何歳からでもチャレンジする柔軟な気持ちを持って人生を楽しんで下さい。仕事以外のコミュニティを持つ事は人生を豊かにしてくれると思います。

最近のゴールデン街は、インバウンド観光客で賑わうことが多くなり、歴史ある街の魅力は不変であることを物語っています。もし新宿に立ち寄る機会があれば、ふと足を運んでみてください。新たな刺激や発見があるかもしれません。新宿で秋田弁でおしゃべりするのも、乙かもね。私自身も、皆さんとお話しできることを楽しみにしています。

(※1967年夏、新宿・花園神社に突如出現した「紅テント」は神社の境内や、かつて小学校だったグラウンド等、場所を問わず神出鬼没に出現する移動式テント劇場。演劇界に革命をもたらした。)

​2024.8.16掲載
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no.9 「変遷〜大館に感謝して」 鳳鳴46期 1994年卒 齋藤剛さん

4/6/2024

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「変遷~大館に感謝して」
鳳鳴46期 1994年卒 齋藤 剛

高校卒業と同時に大館を離れ、はや30年が経ちました。最近は大館の人々や街並みに思い馳せることが多くなってきました。心残りはありませんが、カッコいい言葉にすると、ノスタルジーとでも言うのでしょうか、懐かしさと同時に切なく寂しい気持ちになります。これは大館への感謝の気持ちではないかと、、、不思議なもので歳を重ねる毎にその思いが強くなります。

私は小学校から野球をやって来ましたので、漠然と野球部に入るものだと思っておりました。白に臙脂、胸にHOMEIのユニフォームは魅力的でありましたが、高校野球では通用しないと判っていましたので野球を続けませんでした。15歳の若者に判断させる残酷な時期でもありますね。二つ上の田安誠先輩(鳳鳴44期)や宮﨑良先輩(同44期)が実力がありながらも野球を続けてなかったことが不思議でしたが、鳳鳴の自由な校風を生で表現している先輩方が斬新で魅力的に映ったものでした。
宮﨑先輩が持ち前の地肩を活かしてやり投げ競技で活躍していることがわかり、陸上部に所属した私は宮﨑先輩と浜名浩樹先輩(鳳鳴44期)のご指導を受け、没頭していくことになります。競技成績は平凡でしたが、二つ下で入部してきた高杉昌平君(鳳鳴48期)がドンドン成績を伸ばし、大活躍をしてくれるようになり、これまた素晴らしい人材であったと記憶しております。
みなさん、元気にしておりますでしょうか。楽しい時間を過ごさせて頂きました。ありがとうございました。

東日本大震災直後の甲子園初出場は素晴らしかったです。仕事はそっちのけで、溜まりに溜まった地元愛を爆発させようとアルプススタンドに一直線でした。天理高校相手によく戦ったと思います。素晴らしい光景でした。
それまで甲子園にもっとも近づいた時代と言えば、私の一つ上、1993年夏(鳳鳴45期)ではないでしょうか。そうそうたるメンバーが揃い、初出場に期待がかかりました。校舎の正面玄関にある事務室のテレビ中継を食い入るように大勢の生徒が取り囲み、初の甲子園出場を祈っていました。負けた瞬間は泣きました。同時に拍手喝采でありました。今もその素晴らしい光景が思い起こされます。感動をありがとうございました。

そして卒業式。正面玄関に降りていく階段の踊り場から眺める光景、胴上げしようと待ち構えてくれている後輩たちに手を振り、天井にぶつからんばかりに胴上げしてくれた陸上部の後輩たち、あらためて感謝です。あの光景は今も忘れることが出来ません。
卒業してもまた直ぐに会えるだろう。と、しかしあれから30年。誰一人として再会して感謝の気持ちを伝えることが出来ていない。大館を離れる、という事はこういうことなんだろうかと、、、寂しいですね。

私は高校2年で本四海峡大橋のような大型建造物に携わりたいと決めてから、大学では土木工学を専攻し、株式会社フジタという建設会社に入社しました。その後、全国を転々とする中で現場監督から営業職を生業とし、入社から25年が経ちました。周囲のサポートもあり何とか続けて来られました。計10回の引越を経て今に至る、でございます。家族にも感謝しかありません。

昨年4月に東京支店に配属となったことがきっかけで藤岡仁先輩(鳳鳴41期 陸上部)と偶然知り合い、東京鳳鳴会総会・懇親会に初参加となりました。校歌斉唱では数百人に及ぶ諸先輩方々の凛とした姿がとても誇らしく、先に大館を離れた先達も気持ちは同じなのかと勝手に共感し、感極まってしまいました。

これまた30年ぶりにお逢い出来ました浅利雄一郎先輩(鳳鳴45期 野球部)の熱心な勧誘により、東京鳳鳴会事務局にも少し、顔を出させていただくこととなりました。ゴルフコンペにも参加させていただく中で、仕事関係のお客様にも、新宿ゴールデン街にも、自分の会社にも、、東京には多くの鳳鳴戦士が存在していることが判りました、この半年で多くのつながりを持たせていただいております。とても心強くありがたいです。

これまで私は感謝を言葉にして伝えてこられなかったと思います。このコラムの寄稿を通して、少しでも伝えたい。これまで私に関わっていただいたみなさまに心から感謝しております。
感謝!感謝!感謝!

最後に私のように一度も鳳鳴会に参加したことが無い方々、同じような思いで毎日を過ごされている方々、大勢いらっしゃるのではないでしょうか・・ぜひ気楽に参加されて、鳳鳴戦士と共感してみてはいかがでしょうか。

東京鳳鳴会の益々のご発展を祈念いたします。

​2024.4.6掲載
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no.8 「偶然の出会い」鳳鳴47期 1995年卒  櫻庭広樹さん

12/1/2023

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「偶然の出会い」
鳳鳴47期 1995年卒 櫻庭広樹
​

鳳鳴高校での思い出は、やはり対面式と応援歌練習です。反り返った姿勢での練習はつらかったですが、バンカラの校風と不条理さに直面し、一種の通過儀礼としては意味があったのだと思います。また、東京鳳鳴会の懇親会で校歌を歌いましたが、意外に覚えていたので、その意味でも一定の効果はあったかもしれません(笑)。

鳳鳴では理数科に在籍し、卒業後、東北大学法学部に入学しました。法学部で法律の面白さを感じ、司法試験を受けて合格し、裁判官に任官しました。裁判官時代は、民事・刑事両方の事件を担当しました。今は、裁判官をやめて、東京駅の近くで弁護士をしており、企業からのご相談を主に受けております。
(奥野総合法律事務所 電話:03-3274-3805)


鳳鳴を卒業して28年、法曹になって20年がたちました。職業柄これまで多くの方とお会いし、様々な事件・案件に関わってきましたが、鳳鳴高校出身の方とは、なかなかご縁がありませんでした。しかし、今年は、鳳鳴高校かつ東北大学出身という自分と同じ経歴の後輩が事務所に入り(次回は一緒に東京鳳鳴会に出席したいと思います。)、ある案件のご相談者がたまたま鳳鳴高校の先輩であったということがありました。

このような偶然も重なって、今年初めて東京鳳鳴会の総会・懇親会に出席してみました。気楽な会だろうと思っていましたが、立派な方たちの集まりで正直驚きました。鳳鳴高校が素晴らしい学校で愛校心のある方々に支えられていることを改めて認識しました。また、ここでも偶然に理数科で同クラスだった奈良君と久しぶりに会い、その後二人で4次会まで行ってしまいました。若手の出席者は少なかったですが、先輩・同輩・後輩と交流ができ、楽しいひと時を過ごしました。忙しい若手にとっては、ハードルが高いかもしれませんが、機会があれば、是非参加したらいいと思います。偶然の出会いがあって、楽しいですよ。

2023.12.1掲載


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NO.7「暁に祈る-母校を想いながら」 鳳鳴45期1993年卒 浅利雄一郎さん

9/1/2023

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「暁に祈る-母校を想いながら」
鳳鳴45期 1993年卒 浅利雄一郎

​卒業してから本年でちょうど30年となりました。45期の私は今年で49歳を迎えることになります。自らの半生と母校への想い、同期の皆へのメッセージも込めてしたためていきたいと思います。

高校時代の思い出は、野球部に所属し野球漬けの毎日を送った生活です。佐藤俊明監督と奥村渉コーチによる新体制でスタートした野球部生活は、地獄の練習の日々でした。佐藤俊明監督におかれましては、文武両道に重きをなし学業生活態度で負の側面があれば、厳しく律せられることもありました。現在も社会人として礼節を重んじる姿勢はこの時に根付いたものと思います。本年夏の甲子園を制覇した慶応義塾高野球部の森林監督を見ながら、佐藤監督を思い出していました。また、当時は大学野球を経験し卒業2年目の奥村コーチの教えは最新野球を大館にもたらす伝道師であったことは後に知ることになります。2007年に大館リトルシニアを設立し、21世紀枠甲子園出場時の選手3人を輩出することになります。両雄のもとで得られた戦績から先にいえば、1991年秋(高校2年)翌春甲子園選抜予選秋田県大会優勝(鳳鳴高校としては初優勝)、同東北大会出場ベスト8(選抜は決勝まで勝ち上がる必要があり甲子園出場ならず)、1992年春東北大会出場ベスト4(甲子園予選ではない)と華々しい戦果で、今でも大館鳳鳴史上、最強のチームであったのではないかと自負しています。私は捕手として試合に出場していましたが、投手に浅野晃秀(現雄物川高校野球部監督)、攻撃ではスラッガー本多高生(現在福祉関係職)の超高校級の選手がチームを牽引してくれたことで上述の戦果がもたらされたものと思います。エンジのユニフォームを着て大館鳳鳴野球部の一員であったことは誇りであり、今でも良い思い出です。30年振りに当時の私どもを支えて下さった方々に御礼申し上げたく思います。ありがとうございました。

卒業後、エンジに魅せられた私は、1年の浪人期間を経て早稲田大学へ進学することになります。大学生活は紆余曲折がありましたが紙面の都合上、割愛させていただきたく思います。時は過ぎて、2015年の100周年を迎えての大館で例年開催される鳳鳴会では、祖父政夫(大中37期)、父政敏(鳳鳴20期)、私雄一郎(45期)3人で参加することができました。懇談会では3人で壇上に上がり、ご挨拶できたことも良き思い出です。2018年には祖父もこの思い出を胸にこの世を去りました。

現在、私は国際物流業者で西濃シェンカー株式会社に所属しています。航空、海上輸送でお客様のお品物を輸出や、海外から品物を輸入するサービスを提供しています。国際物流の営業職としては現在20年となりました。会社のソフトボール部にも所属しており、土日の練習から、同業界で開催される公式戦にも参加しています。体は動かずとも汗を流して練習や試合後に皆で酒を飲むことが楽しみな生活を送っています。

また、東京鳳鳴野球部会事務局も仰せつかり、2年に一度の企画と運営をおこなっています。この3年間は開催できませんでしたが、本年11月25日(土)に3年振りの同会の懇親会を開催する運びとなりました。野球部ご出身の方々でご参加希望の方がいらっしゃいましたらぜひお問い合わせ下さい。(浅利携帯連絡先:080-5901-1166)

最後になりますが、鳳鳴の諸先輩方々にはこれまで大変お世話になり心より感謝申し上げますと共に今後ともご指導ご鞭撻を賜りたく存じます。また、同期と前後期の鳳鳴会への参加が少ないことから今後は勧誘活動に勤しみたく企図しています。
来たれ、友よ、鳳鳴会へ。

​2023.9.1掲載
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no.6 「シンドバッドの冒険」鳳鳴31期1979年卒 佐々木一雄さん

4/26/2023

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「シンドバッドの冒険」
鳳鳴31期 1979年卒 佐々木一雄

私が鳳鳴高校在学中の1976年頃は、ABBAや映画Saturday Night Feverの大ヒットで世界はDiscoブーム。ワクワクする未来を感じさせる中、我がクラスにアメリカのオレゴン州からLoriさんという交換留学生が遠路遥々来日して私の隣の席に座ることになった事が縁で、日本の海の向こうの世界に目が向きました。卒業後、東京で建築学を学び、五木寛之の小説「青年は荒野を目指す」に刺激されて、1981年、イラン‐イラク戦争の真最中のバグダッドに、設計図を抱えながら、シンドバッドをダイヤモンドの谷に運んだルフという巨大な翼竜の代わりにBoeingに乗り、モスクワ、フランクフルト、アンマン経由で約3日かけてFlightしたのが冒険の始まりでした。
 
鳳鳴高校の応援歌にもある「臥薪嘗胆」をひそかに胸に抱き、覚悟しての出発でしたが、対空砲火に見舞われることも無く、着いてみるとバグダッドは平穏そのもの。着飾った男女のカップルが週末のレストランで楽しそうに談笑し、宿泊先のホテル前には立派なアリババと40人の盗賊の美しい噴水が七色の光にライトアップされていました。拍子抜けし、安堵するとともに、テレックスがメインの時代ながらも正反対の状況であった場合、正確な情報を早く収集する事の重要さを直に我が身で感じました。
 
設計図を基に、現地で現地人と協力してプロジェクト完遂するには、文化も言葉も価値観も全く違う人達とチーム編成する必要があり、初めて対面するエジプト人、イラク人と試行錯誤しながら、約22年後の2003年に日本から自衛隊が派遣されることになるSamawahという町を拠点に、初めて見る砂漠(土漠)をサウジアラビアの国境付近までランクルで走り回りました。
 
ほとんど成果を期待されていなかった私が東京を驚かせたのは、技術者である私がチームのコミュニケーションを通訳に頼るのではなく、自分から彼等の言葉であるアラビア語で取ろうとしたことが大きかったと思います。鳳鳴時代は理系か文系と分けられたのですが、世界ではどちらの要素も同時に駆使すればとてもうまくいくことを自分で実証して、この成功体験でリズムを掴んだ私は、イラクのあとシリアに5年、アルジェリア6年、サウジアラビアと中近東に滞在することになります。
 
思い出深いのは日本政府の無償援助プロジェクトでアフリカのカメルーンに赴いた時のことです。熱帯性気候で中近東とは全く違う気候、今度はアラブ人とは全く気性も文化も違うカメルーン人とのチーム編成で、彼等とは鳳鳴時代Loriさんと鍛錬した英語に加えて新たにフランス語が加わりました。
マラリア蚊の習性を研究して感染を防ぎながら、コテージの前に聳える巨大なマンゴーの樹からたわわに実る魅力的な甘い香りを放つマンゴーを好きなだけもぎ取り味わいました。陽気なアフリカ人の心地よい音楽と笑顔が素晴らしい女性のダイナミックなダンス、大地の喜びが彼女らを通してリズム太鼓と共に体の芯まで伝わってきました。建設中の小学校の前を通る子供たちが大きな目を広げ屈託のない笑顔でBonjour、Merci Japon.と歌いながら通学している姿に、子供たちの希望と未来を感じ体の底から力が湧いてくるのを体感した次第です。


2006年、日本が有事に巻き込まれてマラッカ海峡や南シナ海が海上封鎖された場合、生命線であるエネルギー確保の多様化に対応すべくサハリン2プロジェクトに参画することになりました。ロシア語表記はキリル文字ですが、発音はフランス語のように大きく口を開けて喉から声を出さなくても伝わるので、秋田出身の私にはとても楽でした。また零下20度では殆ど防寒マスクで鼻から下を覆っているので、大きな口は開けるのは不自然でもあります。日中は50度を超えるアルジェリアのサハラ砂漠から、零下20度前後のサハリンへの移動と環境の変化はちょっと心配でしたが、全く問題なく順応できたので、改めて強靭な自分の身体に感謝しています。
 
マレーシアとベトナムにはそれぞれ2年の合計4年滞在しました。中近東やアフリカ、ロシアとはまた違う文化で、特にマレーシアはインド系、マレー系、中華系、そしてボルネオ島にはイバン族というジャングルの民が混在しまさに人種の坩堝です。食べ物も多種多様ドリアン、スターフルーツ、野生のランプータン、ジャングルバナナと、果物の宝庫でした。またベトナム人の器用なこと。ベトナム戦争を経験した世代は、キャピラーでもバイクでも一晩で殆ど修理するか、代替品をどこからからともなくかならず調達してきます。その能力と彼らのネットワークには、驚きを超えて畏怖の念を抱かせられました。

1981年からのシンドバッドの冒険で思うところは、2023現在、通信手段や情報ネットワークが格段進歩しているにも関わらず、安心して冒険できる場所や環境が急減していると言うことです。私の友人には、残念ながらテロリストによる人質事件に巻き込まれ命を落としたり、難を免れ無事生還したりした人がおりますが、驚くことに生還した人間は、また周到な準備をして淡々と出発して行きます。
私自身、2013年までフランスへ戻る際オランダのスキポール空港経由でいつも搭乗していたマレーシアのクアラルンプールとアムステルダムを結ぶマレーシア航空MH17便が、2014年には、ウクライナ上空を飛行中にミサイルで撃墜されてしまいました。

新卒或いは卒業生の皆さん、冒険に出発するに際しては、政府や会社のみならず多極的な情報ソースのアンテナを自分なりに張り巡らし、その真偽を見極め充分なリスクアセスメントを行ったうえで、勇敢に自信をもって冒険に出発したうえで充分楽しみ、忘れえぬ人生の1ページとされることを切に願い、無事に帰還するまでが冒険のシナリオであること。そして、「百里を行くものは九十を半ばとする」という格言にてコラムを締めくくりたいと思います。

Good Luck, Von voyage!!
​
2023.4.26掲載
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